カーメカニックの父の元に産まれる。DNAなのかスピード感に優れていた勘を持っていたと思う。
スポーツにはとても想いが有り、6歳からローラースケート、8歳からアイススケートを独学で学び中学に入学し柔道部、卓球部と身体を鍛える事に没頭し今現在の身体をゲットする。
中3ではやはり車屋の血からか技術工作エンジン班部でバイクのチョッパーをデザインする。
15歳から蒲田のアパレルメンズショップのバイト、店長の勧めでサーフィン、ダンス、ファッション等に没頭していった。
1957.1.25 東京都出身
カーメカニックの父の元に産まれる。DNAなのかスピード感に優れていた勘を持っていたと思う。
スポーツにはとても想いが有り、6歳からローラースケート、8歳からアイススケートを独学で学び中学に入学し柔道部、卓球部と身体を鍛える事に没頭し今現在の身体をゲットする。
中3ではやはり車屋の血からか技術工作エンジン班部でバイクのチョッパーをデザインする。
15歳から蒲田のアパレルメンズショップのバイト、店長の勧めでサーフィン、ダンス、ファッション等に没頭していった。
ある日近所にTHE SURF surf shop がオープンしている事を知り店長と行く機会が増しサーファーの一員と成る。メキメキと頭角を表し沢山の先輩サーファーに一目置かれスケートボードを貸して貰ったのが私のスケートボードライフのスタートだ。
高卒後、家業の自動車修理工場で働き始めた。
初任給でやっと自らのスケートボードを手に入れた!
1975年4月、THE SURFの社長(紀藤さん)の元にアメリカで世界初のスケートボードコンテストが有る事を知らされ、'アキ?世界戦行くか?'と社長の一言!
私は二つ返事で承諾した。
1975.8月
1st World Invitational Skateboard Championship
Slalom 14秒台順位不明
Freestyle 5位
その後国内戦、第5回全日本ローラーサーフィン選手権大会
優勝、全日本チャンピオン奪取
ブームの始まりの年を迎え、アキモデルのデッキ、トラック、ウィール、シューズ等初売りに至る。
沢山のワールドコンテストに出場して行く中 日本にもスケートボーダーが創る協会を設立したくAJSAを発起した。
現在は、沢山のkids達の育成にも愛を注ぎながら自身のDestination'オリジナルデッキ'の開発に注力を注ぎ込み、One offな1点物から数あるオリジナルパターンを活かし受注を受けるリズミックな活き方を送っている。
1969.3.8 東京都出身
小学5年生頃より8歳上の兄の影響を受けスケートボードとサーフィンに目覚める。
兄からプレゼントされたウエットスーツとサーフボードで兄達が週末夜中に集う場所から沢山のサーフポイントへ連れてってもらった。
この頃は、時代的にシティーサーファーと言う文化が生まれていて街中が似非サーファーだらけだった。しかしALOHA製キャリアにシングルフィンのサーフボードを何枚も積み重ねスバル360を転がす兄やその友人達がとてもカッコ良く輝いていたのを覚えている。
後に15歳くらいで鵠沼海岸に在ったローカルサーフショップ「PINNEAPPLE BETTY’S」の門を叩いた。運が良くそこには故「大野薫」さん本人がいらっしゃった。直ぐにお店の中で沢山お話しして下さる中で僕はサーフボードを作りたいです!と、薫さんに伝えた。薫さん→そか、じゃあこっちおいでって言われ外へ出る。どこへ連れて行かれるのかと思ったら駐車場のブロックの上に2人で座って薫さんはBETTY’Sのオーダーシートと万年筆を取り出し、僕の身長や体重やどんなサーフィンがしたい?などを聞き出していく。
そして、先ずはこうしたら良いんじゃない?ってアウトラインやレールの形状等スラスラと万年筆を滑らせて行く。。。Betty’sのディカルはどうする?って聞かれ任せますと伝えたら…
そか、全部入れちゃえって!lol それはそれは、CMライダーの始まりで在ったに違いない!刺激が多過ぎるソコは明らかにカルチャーが生まれていた。僕のマイケルという名前は、そう 薫さんが付けてくれたのだ。当時の雑誌で今よりずっとカルチャー色の濃かった雑誌Fineの薫さんの担当していたページのモデルやCMや原宿ラフォーレで開催された”SURFIN MEGA GO-GO”の受付等、沢山のチャンスと経験を薫さんから授かった。。。
ADIDASのTRACK SUITSにKANGOLのハットにSUPER STARをシューレース無しで履いた、TAKAGI KANさんやHFさん等などそうそうたる顔触れがソコには集まっていた!やがて、僕は19歳にもなり西武スポーツ吉祥寺へ契約社員として働く。
それはそれで新しい人生の始まりで楽しく販売に励むことが出来たのであるが、こんな僕なので毎週末はFord Falcon v8 OG Coupeに乗った憧れのBETTY’SチームライダーであったCHIN-NEN君が職場の社員通用口まで迎えに来てくれ、そのまま下北沢の彼のご両親が営むRE-FLEX CAFEで賄いご飯を頂き,そのまま夜の六本木へと向かい朝方まで遊びまくる。海・遊び・仕事のルーティンが始まった。
そして、二十歳になろうとする頃に違うセクションのリーダーの方から紹介してもらった人がいる。それは、紛れもなく僕がSTUSSYの服を着てシレッと西武スポーツの制服かのように着ていた為に、その機会を下さったのかな?と言う出会いだった。それは木村さん(キムさん)だった。数回お会いして行く中でお店出そうかと思ってるんだ!、とキムさんから聞かされた。
世界初の1号店だ。
お互い意気投合しあって僕も1年足らずで西武スポーツを退職させて頂き、STUSSYのお店の準備まで暫しフラフラとしていたり、当時は卸だけだったので入荷した商品の各卸先への振り分けのお手伝いなどさせてもらいながらの日々を送った。
そして遂にその時が来たのである。代官山の秀和代官山レジデンスのワンルームをSHOW ROOMとしてオープンした。数ヶ月後に、自由が丘の小さな小さな骨董品屋さんの跡物件で本格的にお店「STUSSY TOKYO CHAP’T」をオープンさせた。
ネオン管でストックロゴをエントランスの上に取り付け煌々と光るサインはとても印象的だった。
当然全てがアトパブだったので宣伝とかも出来ていない。しかし、あっという間に噂は広まり5坪の小さなCHAP’Tは、近所にあった松田聖子さんのブティックやDEP’T STOREさんを遥かに超えるお客様が連日来てくれた。お店の所在地の問い合わせで、駅前の交番のお巡りさんも何事ダ?くらいの勢いで良く覗きに来ていた。そんな5坪のCHAP’Tも徐々に勢いを増していき、代官山へ移転したり商業施設のパルコへ出店したりと多忙な日々が続いた。沢山のディレクションなどにも携わらせてもらいSTREET文化を完全にロックした!そして1996年頃にSTUSSYより自身のシグネイチャモデルのサングラスMichael Modelをリリースしてもらった。後々STUSSYから身を引き、仲間達とSTREET BRANDを立ち上げたり全国へDJさせてもらいに行ったり、仕事抜きでCarifolniaやMexico、New york、ITALYにPARIS、Bora Bora Islandやアジア等など沢山海外にも行かせてもらい素晴らしい時を過ごさせてもらいました。多種に渡り沢山の経験を積む事によって表舞台に出されていた当時の邪魔だった自分のプライドも、様々な業種などに自身をさらけ出す事によって制覇出来た。
そして今の自分のオリジナルスタイルを確立する事が出来た。
一度きりの人生だからこそやりたい事をやる!
どこにも属さない・属せない それが僕だ。
それが、僕の生きる道です”Tracks”
LOVE&DESTROY
1967.8.24 東京都出身、千葉県蘇我で育つ。
日本のサーフィン、サーフボードビルダーのパイオニアの父、故 中村 一己の次男として父と兄(現在の株CHP1974年創業)の元で4~5歳からサーフィンやスケートボードを始める。
サーフィンから知ったスケートボードに夢中になりアキ秋山のもとで練習を重ね、第一回全日本スケートボード大会でボーイズクラスで優勝。カリフォルニア、デルマーの大会にてハーフパイプでボーイズで二位。(当時は子供のスケーターがいないので楽勝)
その後サーフィンに専念して、、
NSA全日本ボーイズクラス 準優勝 など。13歳から冬のノースショアに毎年、通い、中学を卒業と同時に単身で南アフリカへサーフィンとアメリカとは違うサーフカルチャーの勉強の為、サーフボードファクトリー(タウンアンドカントリー)でアルバイトしながら放浪する。
帰国後、当時では最年少の17歳で日本の団体JPSAプロサーファーとしてデビューし芸能活動もしながら活躍する。
30歳頃からトリップサーファーとしてプロサーファーの活動をはじめる。
専門誌とのタイアップで沢山の国に出向いて波に乗る。ニューヨークでもサーフィンしたり時には世界でも初でロシアなどへ出向き話題になった。
幼少期の頃から父のもとでサーフボードのシェープは遊びでやっていて30代になり本格的にカスタマーへのシェープをし始める。故ピーターダニエル、故クリスマケロイなどのDNAを引き継ぎ現在に至る。
プログレッシブな性能の追求と芸術的な情熱。
現在はサーファーに寄り添い素敵な感動を与える事を目指し…
サーフボードのデザイナーとなり、その性能、乗り心地を粉まみれで造るサーファーでありSurfboards shaper(職人)である。
80年代初頭よりSTREETやSURF&SKATESなど様々なシーンで活躍してきた3人のレジェンドが立ち上げたブランド
>Tracks Brothers®︎<
のオフィシャルショップです。
日本人として初めてプロスケーターになったアキ秋山氏と、現在サーフボードビルダーとして活躍している中村大輔氏と、世界で初めてのSTUSSY TOKYO CHAP'Tのディレクター兼ショップマネージャーを勤め、90年代中期には彼のシグネイチャーモデル"MICHAEL MODEL"のEYE WEARが世界でミリオンセラーとなった細渕マイケルの3人で構成されたブランド。
そんな3人が築いてきたカルチャーを、今っぽく・我々らしく様々なアイテムに落とし込むをコンセプトとしている。また、我々が目利きしたデッドストック類も販売させて頂きます。
aka.
AKi AKiyAMA
Michael
Daisuke
Nakamura